「有難うございましたー」
大学生バイトだろう、やる気の無い声が後ろから聞こえる。
俺も、その店員も、きっとこう思っているのだろう。
「何をやっているのだろう」と。

何だか、色んなことが上手く行かない。
家のあちこちで物は壊れるし、
張り替えたばかりの弦は切れるし。
気分転換に…と思い外に取り敢えず出たものの、
特に、何も変わらない。

外に出てみると、何か違和感。
ふと、上を見上げる。
灰色の空。
と、雨。

「…雨かよ」

勿論、傘は持っていない。

折角セットした髪が濡れて駄目になるし、
風邪を引くかもしれない。
雨は、好きじゃない。

コンビニから家まで、
いくら近いと言えども
びしょ濡れになりきるには十分な距離がある。

けれども、傘を買う気にはなれない。
この前、買ったばかりの傘を
このコンビニで盗られたばかりなのだ。

「ついてねー…」
悪態を付きながら、足早にその場を去ることにした。


気分転換どころではない。
灰色の心はもはや黒。
ああ、やってられない。

ようやく、マンションに辿り着く。
水を含んだ服が、重く、張り付き鬱陶しい。
手に持つビニール袋の、水が落ちるその音も、耳に障る。
すっきりしない。何もかも。

どうせなら、びしょ濡れの方が、
まだすっきりしたかも知れない。
中途半端な濡れ具合。

取り敢えず、シャワーを浴びたい。
何もかもさっぱりと洗い流して…

と。
足が止まる。

何かが、俺の家のドアの前にある。
よく見ると、毛布に包まるもの。
人。
思考が止まる。

「…」
「…おかえり、堕威君」

聞きなれた声に、再び思考と会話が戻る。
「…何やってんねん、人んちの前で」
気が抜けた。


突然お姫様がやってきて
それまでのもやもやがどっかに行ってしまった。
っていうか、一体何しに来たんやら。

雨が降る前に家の前に陣取っていたらしく、
濡れた様子は無かった。
しかし、寒いのか毛布が体を覆っていたけれども。

心夜はこっちの事など興味が無いらしく
(人の家に堂々と入ってきたくせに…)
さっき、俺が入れたコーヒーをぼんやりと眺めている。

「…一体、何しに来たん?」
「…」
沈黙。
というか、多分聞いてない。聞けっちゅーねん。
その後も何とか会話しようと試みるが、暖簾に腕押し。
ああ、しまった、もっとネタのレパートリーを増やしておくべきやった…?

とか考えていたら。
「ねえ堕威君」
「は、ハイ!」
お人形さんが唐突に口を開くものだから
うっかり敬語で答えてしまったりしたが、流石心夜、全く気にしていない様子。
何故か、ちょっとちょっとと言いながら、手招きをしている。

「何や、一体」
とりあえず、動くお人形様を覗き込む。

すると、一言。
しかも、ちょっと微笑んだりなんかして。
表情の意味が判らず、少し眉間を寄せた瞬間。
「堕威君の髪、濡れると可愛い」

そして俺の頭をぽんと叩いてきた。

「は?」
呆気。
え、何ですか一体アナタは?

「じゃ」
……はっ、思考が止まっていた。

ちょっと、と言いかけたが止めた。
本人が目の前に居ない。
一体何処に消えたんだ…?


数分後。
自分の部屋を覗いてみたら、俺のベットは占領されていた。
あまりにも静かに眠っているので、一瞬人形かと感じるその寝顔。
…寝にやってきたのか…?

何だか、どっと疲れが押し寄せる。
しかし、本来倒れこむ居場所は既に奪われている。
本当はシャワーも浴びたい。
でも、今はもう、ただ眠りたい。

仕方なくソファーに向かったのは覚えていた。


彼がいつも見慣れたと思っていた風景。
しかし、今日は確実に何かが違っていた。
少しの間、彼は荷物を持ったまま、ぼんやりと立ち尽くしていた。

「あ、心夜、おはよう」
風景と同化しそうになっていた心夜に、薫がおはようと声を掛けた。
返事は返ってこなかった。
どこかぼんやりとしていて、心夜は薫のあいさつなど、聞いていない様子だった。

しかし、あまり気にすることなく、薫は言葉を続けた。
「今日はちょっと遅かったな」
「…ああ、一回帰ったから…、えっと…」
しばらく心夜はブツブツ呟いていたが、薫が続けた一言で一旦呟きが止まった。
「堕威、風邪ひいたらしいで。昨日雨に濡れて冷えたとか何とかで」

「…ふーん」
結局、心夜はこの一言しか答えなかった。


…頭が、痛い。

何か、身体がだるかったので、熱を測ってみたら38度を超えていた。
昼から集まることになっていたが、俺が居なくても今日は大丈夫だろう。
薫君の負担が増える以外は。

ふらふらと歩みを進め、冷蔵庫を覗いてみた。
そういえば、昨日夕飯食べてなかった気がする。
予想通り。購入した弁当が、ビニールに入ったままだった。
後は、大したものは入ってない。

しかし、その弁当を食べる気にもならず、
買った覚えはないが何故か入っていたオレンジジュース片手に、ベットに戻った。


ベットに横になって、今日の事を再び思い出した。

うっすらとカーテン越しに日が差した頃。
時計は見ていないが、恐らく7時前だと思う。
遠くで、カチャリと音がした。
アレは多分、心夜がドアを開けて出て行った音だ。
…そうだった、昨日心夜が何故か家に来たのだった。

「…一体何の用で、アイツ来たんやろ」

結局、よく判らないままだった。
でも、よく考えればいつもそんなもんだった気もする。
まぁいいや、アイツはああなんだ。そう思った。


意識が現実から離れるか離れないか。
そんな時に、枕元にあった携帯電話が鳴った。

そんなに重症ではないとはいえ、
頭が痛い時にこの電子音は、辛い。
一体誰からのメールやねん、そう思って見てみたら。

「…し…んや……から?」
アイツからメールがあるなんて、珍しい。
もしかして今日俺が風邪をひいたせい?
…なんて、くだらない事を考える。

でも、メールの文の方がくだらない事だった。
たった一文のメール。

「だい君って、案外身体弱いよね」

…。
「…あのガキ…俺にさては風邪を引かせに来やがったな…」
思わず、苦々しく呟いてしまった。


「別に、違うけど」
突然、横から声がした。
ありえへん事態に、自分が病人という事も忘れて飛び退いた。

そこには、心夜が居た。
「何だ、案外元気やね」
あきれ返ったように呟いてきた。

あきれたのはこっちだ。
「お、おお、お前…し、し、仕事…サボるなっちゅーねん」
「別にサボってないよ」
「じゃあ何でここにおんねん」
「ちょっとだけ抜けてきた」
「同じやないか!はよ帰れ!!!!」
「それよりさ」
「…ああん?」
「ケータイ落ちてるよ。拾えば?」
「あああ、はいはいはいはい!拾えばええんやろ拾えば…
 …って、あれ?心夜…?」

ちょっと目を放した隙に、目の前に居た心夜が消えた。
同時に、手の中の携帯電話が再び鳴った。

再び、心夜から。「まぁ頑張れ」

「…」
もう、何が何やら…
一応、心配してくれたのだろうか。
でも、それならもう少し、普通の看病をして欲しかった。

「…はぁ、何か、調子狂うわ…」
今度こそ、寝る事にした。


…今日も雨。何やねん一体。最近雨降り過ぎとちゃいますか。

でも、今日は前々から買い物に行こうと思っていた。
今更…行かないのも何となく悔しいかったし、
それに…折角風邪も治っていたことだし。
そんな訳で俺は、傘を差して出かけていた。

結局、買い物の間、雨は晴れる事無く、一日中しとしとと降り続けていた。

そんな日の、家への帰り道。
…目の前に、傘も差さずに突っ立ってる…誰か。

「…って、…心夜!?」
思わず、大声を出してしまった。
おもむろにこちらに顔を向けて、雨音に消えそうな声で呟いた。
「…雨の日に外歩いてるって事は…風邪治ったんだ」

…ってか、お前、そんなこと言ってる場合じゃないやろ。
心夜は全身びしょ濡れで、髪がべったりと顔にひっついてる。
「何やっとるんやお前、風邪引くやろアホ!」
「大丈夫、僕風邪引かないから」
「馬鹿!…あーもう、俺んち近いから、行くで!風呂入らんと…!」
俺は、心夜のその細い腕を掴んで、走った。


俺の部屋。
…ま、今日は片付けたばかりだったので、そんなに不快でもない…と思う。
とりあえず、こいつを風呂に入れさせなければ…
いくら風邪を引きにくい心夜とはいえ、身体が冷えたままではよくない。

「これがタオルで…あー、お前に合う服あるかいな、サイズが…」
ぶつぶつ俺が呟いていたら、後ろでぼそりと心夜が呟いた。
「堕威君ってさ、誰にでも優しいよね」
…は?またコイツは、よく判らない事を…
「別に、誰にでもって…」
「僕も他の人も、堕威君には同じって事だよね」
「…は?」
もう、全くもって意味が判らない。
そのまま心夜は黙ってしまうし…いつまで経っても風呂に入る気配も無い。

しびれを切らした俺は、強引に風呂場に心夜を押し込んだ。


俺はソファに座り、頬杖付きながらぼんやりと窓の外を眺めた。
先程より…雨が強くなった気がする。

そして、解せない心夜の言葉が、頭にひっかかる。
外の奴と、心夜が同じ…?俺そんな優しい人間?
…やっぱりよく判らなかった。
「変な奴」
思わず、呟く。

「…それ、僕の事?」
…後ろから声がした。…やっぱり、聞いてたか…この地獄耳…
「そーだよ」
振り返る事無く、ぶっきらぼうに俺は答えた。

俺の言葉にひるむ事無く、心夜は言葉を続けてきた。
「このシャツ、ヨレヨレなんだけど」
…せめてダボダボって言え。ヨレヨレって何やねん。
振り返り、目だけで俺は威嚇する。
…が、効果むなしく、むしろ近づいてくる心夜。

Tシャツ一枚しか着ていないのだが、大きいのをあえて選んだらしい。
繋がった服みたいになっている。
表情はタオルと髪に隠れてよく見えない。
まぁ、どうせいつもの仏頂面やろうから別に気にしない…
…って、ちょっとお前、近づき過ぎやないか?

心夜の瞳が、ちょっと揺らいだ様に見えた。
…何かちょっと、俺は居心地悪くなり、視線を逸らして一気にまくしたてた。
「…っ、そんな顔したって、俺怒ってるんやで!?
 何せ誰かさんが雨の中突っ立っとるから…」

「…都合悪くなるとすぐ顔背ける…」

…と、言われたと、思う。
流石にちょっとムッと来た。
「あん?何やお前…」


先を続けようとしたのだが、止まってしまった。
…いや、止められてしまったのだ。
ありえない位近くにある心夜の顔。
ありえない位くっついてる…

「!!!!」
ようやく俺は何が起こったか理解して、心夜を突き飛ばした。
…え、今、俺達…キ……ス…?
「な…。バ、バカ、お、お、おま…お前…い、今…」

一瞬の沈黙の後。

「………ノリ?」
俺はソファから転げ落ちた。

もうお前、帰れ…!
そう言いたかったが、脱力し切った俺は何も言えずにいた。


…多分見た目的には落ち着いているように見えるのだろうが、
はっきり言って、俺は今とてもパニックに陥っている。
…と、思う。
っていうかパニック。

…確かにあのガキならやりかねんかも知れへん…
ってかノリって何やねん、ノリって!
しかも俺が「もう帰れ!」って言っても「ヤダ」って言って帰らへんし…
もう俺を一人にさせて下さい。

…アイツ、結局何がしたいんやろ?
よく判んない事言い出すし、よく判んない事やらかすし、
…キスまで、してくるし。

…ってか、俺最近心夜に振り回され過ぎやで。
ちょっと、ムカついた。


…あれ?そういや心夜は何処行った?
さっきまで、確かテレビの方を向いとった気がするんやけど…。

…まさか。

嫌な予感がして、ベットの方に向かってみると…

「やっぱり…」
この前と同じ様に、俺のベットを勝手に占領する心夜が居た。
というか、むしろ寝てる。寝てやがる。このアマ…
俺はきびすを返して、去ろうとした。
心夜の寝言が…無かったらな。

「…ん…見てよ…」

…何で心夜が、こう言ったかは知らない。
夢でも見てたのかも知れない。
でも俺にはそんな事は関係無かった。

この時…この言葉で。
今までのこいつの…不可解な行動の意味が、判った。

「見……て…よ……?」

もしかして…俺に言ってる?…心夜…?

もしかして、構って欲しかった?

見て欲しかった?俺に?

「…アホやな…」
思わず、口に出る。

だって…本当の事やもん。
俺、いつもお前ん事見とるやん。
何で判らんのかな、こいつ。

心夜の髪に、手を伸ばす。
眠っているその顔を、眺める。
…ホラ。俺、いつもお前の事見てるで?
何だか妙に恥ずかしくなって、俺ははにかんだ。


…その日も、雨が降っていた。
俺は、また傘を家に置いてきてしまい、走って帰る所だった。
でも、俺は途中で立ち止まった。

「…アホがおる」
「…そっちが」
ちょっとの沈黙の後、傘を差した心夜が答えた。

「…いっつも、傘持たないね」
続けて、言ってきた。

「うっさい」
俺は心夜に短く告げ、心夜の肩を掴んだ。


ぱしゃん。
傘が、下に落ちる音。
音と同時に、唇を重ねた。
雨で濡れて冷えたのかな、やけに暖かく、感じた。


「…情熱的」
はぁっと一呼吸置いてから、心夜がクールに告げてきた。
…う、しまった…つい…
「うっさい…」
「顔、横」
イチイチうっさいな…もう。

「雨の日を、待ってた。
 …髪の濡れた堕威君…好きなんだ。
 だって…」
車が俺たちの横を通り過ぎたせいで、最後がよく聞き取れなかった。

「何て言った?今?」
「…何でも」
「え、ヒントヒント」
「…あげない」
「ケチ」
「…この前あげたからあげない」
「この前?」
「僕の事、見てくれないんやもん」
「おま…起きとっ…」


後日…

「…そういや、堕威君って案外身体弱かったね」
「…お前のせいや…!…あー…しんど…」
「38度8分。安静に」
「…ハイ」